sumioさんが亡くなったのは年明けすぐの3日でした。
大晦日に、看護で疲れているyoukoさんの手伝いも兼ねて、
賑やかしにおせちづくりに実家に帰った時は、まだまだ元気で
居間でお気に入りのニニ・ロッソのCDをセットしながら「おう、来たか」と
振り返った姿を思い出します。
きんとん用のサツマイモを裏ごししたり、
数の子の薄皮をむいたり、するめいかを細切りにしたり
鼻歌を歌いながら作業する私の横で、
sumioさんは布団にもぐってニニ・ロッソを聴いていました。
足元にはゴンタが丸くなってて。
夕方、昆布巻きを巻き上げる頃には起きてきて、
「かんぴょうがゆるまないようにしろ」とかあれこれ口出ししたりして
翌日おせちを食べるのをとても楽しみにしていたのでした。
「またお腹こわすから、1つだけよ」とyoukoさんが言うと
「いや、2つは食べる」と宣言。
煮上がった時に味見をさせてあげればよかったね。
あの日は、無事に年を越せる喜びもあって、体調もよく、食欲もあって
私が正月気分を盛り上げようとはしゃいでいたせいか、
ちょっと張り切りすぎたのかもしれないね。
すき焼き風に牛肉とネギと白滝を煮込んだ鍋をつついて
添えた溶き卵もぺろりと飲んじゃって、ご飯も一口食べられた。
「今日はうまい!」とごきげんで、食後にミカンも食べた。
夜、「紅白歌合戦はもううるさいショーになってしまったから見たくない」というので
昭和の懐メロを往年の歌手が歌っていたチャンネルに合わせると
昭和33年のナントカって曲が流れてきて、
「あぁ、これはお父さんが大阪の工場で働いていた頃に聴いた」と。
「なんの工場だったの?」と私。
「話してなかったか? 電線工場だよ。2交代制で働いてたんだ」
sumioさんは徳島大学で電気工学を学び、卒業後すぐに東京のテレビ局に入ったとばかり
思っていたので、はじめて聞く話でした。
「電線の外側に巻く細いコイルなんかをつくっていたんだ。
その品質管理を任されてね、JIS規格を取ろう、ってことになって、
お父さんは、米軍の電気通信機器の資料を参考にして、同じ精度を出せるよう何度も検査を繰り返して
まる1年でJIS規格を取得したんだよ。
当時は大企業ならともかく、町工場でJIS規格を取得するなんて夢のようなことだったから、
社長が大喜びしてた」
「大学卒業して、その工場に一生勤めようと思って就職したの?」
「行きたいと思って行ったわけじゃない。
あの頃は、戦後の就職難だったから、大学に来た求人の中から
1人2社ずつしか受けられなかったんだよ」
「その後で東京に来ることになったんだ」
「そう。大阪には2年くらいいたかな」
人生はほんの些細なことで方向を変えていく。
もし、sumioさんがそのまま大阪の電線工場に勤めていたら
youkoさんと出会うこともなく、私も生まれなかった。
「その前にだって、分岐点はあったんだ。
徳島大で電気をやるか、広島大で建築をやるか、
入学手続きの期限ぎりぎりまで迷っていた時に、
T兄に相談の手紙を書いたんだよ。
その返事が郵便の事情で届かなかったから、
自分がやりたかった電気に進んだ。
でも、後から聞いたら、Tは『広島で建築をやれ』ってハガキを出したらしい。
徳島よりも広島大の方がメジャーで、卒業後の人脈もつくりやすいから、って」
「いやー、ほんとに小さなことで人生は決まるんだな」
この間、五木寛之がテレビで言ってた。
人生は思うようにいくことばかりじゃない。それは誰のせいでもない。
うまくいかない時には「いい風が吹かなかっただけだ」と思えばいいし、
逆に何かとてもうまくいったら「たまたまいい風が吹いただけだ」と
天狗にならないようにしなくちゃいけない、と。
「そうだな。そういうこともあるな。
でも、風任せでもいいけれど、その時々の分岐点で
何を選ぶかは自分なんだから、
最後まで責任を持って生きなくちゃいけない」
その後、会話は五木寛之の宗教観から、大乗仏教とか他力本願の話に展開していき、
「こういう話がおまえとできるんだったら、あの本をあげよう」と
仏教の教えをエッセイ風にまとめた、ある人の本を渡されたのでした。
「退職した時に買って、半分くらいは読んだんだけど、後は読めなかった」と言うので
(sumioさんは目が不自由なので)
「じゃ、私が録音してあげようか?」
そう言うと、「それはいいな!」と乗り気になって
CDに落とし込めるレコーダーは持ってるか、なければお父さんが金を出すから
仕事でも使えるような、いいヤツを買っておけ、と言い、
その場でネットで調べて「これにしようと思う」と私がメモを渡すと
天眼鏡でなめるようにしてメモを見て、メーカーと品番まで確認してた。
つまり、そのくらい頭ははっきりしてて、
すべて自分で理解してないと気が済まない、いつも通りのsumioさんだったわけです。
「ゆく年くる年、見る?」と聞くと
「いいよ。ゆく年はさっさと行ってくれ!」と布団の中から言い、「もう寝る」と。
私は、あの時、大切な最後のsumioさんとの時間を持てて本当によかった。
(独り占めしてしまったことについては母と兄に申し訳ない気持ちもあるけれど)
あの会話が最後の、sumioさんらしい、ちゃんとした会話だった。
そして、その時の顔が今も目の前に浮かぶのです。
生き生きとした目をして。
お父さん、あれからすぐに本の朗読を始めていたんだよ。
正月の2日は朝から晩までずっと録音してた。
3日に電話をもらった時も、枕元で読んであげようと思って
本とレコーダー、持って行ってたんだよ。
続きは自分のために読めばいいよね。
たぶん、sumioさんはそう思って「録音してくれ」って言ったんだよね。
昔、中学生の私に「お父さんに新聞を読んでくれ」って頼んだように。